(第7回)見てはもらえぬ番組を創る

この時点で43歳の池上彰は、

大人向けのニュースをこどもにもわかるように解説するどころか、こどもに大人向けのニュースに興味を持ってもらうことにさえ、これといったノウハウは持ち合わせていなかった。暦年の記者経験の積み重ねと猛烈な読書による豊富な知識こそ持っていた池上だが、このままではそれも宝の持ち腐れに終わってしまう。

危機感に包まれたまま、生放送が開始される1994年4月までの3か月間、池上彰と演出チームそして報道局のOB記者による「週刊こどもニュースプロジェクト」は、毎晩時計の針が午前0時を過ぎるまで(これをテレビ業界ではテッペンと呼ぶ)議論と試行錯誤を重ね、「大人向けのニュースをこどもにもわからせる」という限りなく不可能に近い課題へのチャレンジをはじめたのである。
とりあえず番組の編成予定は1994年4月から1995年3月まで1年間。
どうしても無理なら自然に番組が消滅するだけの話である。とにかく全力を尽くしてやってみよう、それでだめなら仕方がない。
プロジェクトチームは大きく二つのグループに分かれて3か月間の準備期間をフルに企画に専念することになった。

一つ目は報道局OBのベテラン記者二人による、「大人向けのニュースを、趣旨を変えることなく、こどもにもわかる原稿にリライトする」という課題へのチャレンジだった。最初のこどもとの顔合わせの時にどん底に突き落とされた苦い経験を持つ二人だったが、決してあきらめなかった。

二つ目は演出チームによる「大人向けのニュースに、こどもにも興味を持ってもらう」という課題へのチャレンジだった。小中学生を対象にアンケートをとったところ、予想通りニュースはまったく興味がない、という回答がほぼ100%を占めていた。
そこからのスタートである。ありとあらゆる手段を考え出して、これを覆さなければならない。こどもたちに「ニュースは面白い」「政治経済は面白い」と思わせなければならない。これもまた実現不可能な課題としか思えなかった。
観てはもらえぬと分かっている番組を企画するのは、苦痛でさえあった。

池上彰はこの両方のグループに参加して、放送実現への道を全力でひた走ることになったのである。
(つづく)

>>(第8回)わからん

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