池上さんは最後にこう言われました。「均質は危険」と。

 7月26日未明、障害者施設「津久井やまゆり園」において、重い障害のある19人の命が奪われ、27人が重軽傷を負うという事件が発生しました。この事件は障害を抱える人だけではなく、生きづらさを抱える人たちにも動揺や不安を与えているとのこと。
 容疑者が発した「障害者は生きている意味が無い」との言葉は明らかに人権に反しており、強く否定されるべきです。

 個人的な話で恐縮ですが、実はウォッチャーは左耳が聞こえません。
 物心ついたときから聞こえないため、左耳は『飾り』なのだと思っていました。幼かったある日、左側に反応しないことに気付いた親戚に「この子は左耳が聞こえないのではないか」と指摘され、私は『他の人は左耳が聞こえるのだ』という衝撃を受けると共に、そこで「片耳の聞こえない子」だと認定されたのでした。

 私の経験からですが、障害を持つ人は「無い」「できない」がベースであり、その感覚の中で生きているので、「ある」「できる」を基としている健常者と分かり合えるとは思っていません。
 期待は自分を苦しめると知っているので、一旦諦めて、少しずつ歩み寄る姿勢でいた方が建設的ではないかと感じています。その遣り取りにより繋がりが生まれるので、日常生活では不便を感じることは確かにありますが、不幸だと思ったことはありません。

 話を戻しますと、この事件では「弱者切り捨てだ、弱者を淘汰し、強者を優遇する優生思想ではないか」との意見があるようです。
 優生思想とは、人の命に優劣をつけて選別する思想で、かつてナチス・ドイツがユダヤ人を大量殺戮した際、障害者に対しても数多くの虐殺が行われ、それを正当化するために使われた思想のことです。
 ドイツではこの負の歴史を徹底的に教育して人権思想を叩き込んでいるとのことですが、池上さんは「日本では、差別発言はかつて風潮により周りから抑え込まれていたが、現代はネットなどにより差別発言が見える化し、差別を増幅しがちになっているのでは」と分析。

 印象的だったのは、番組内で「役に立たなければならない」という文言が繰り返されていたことです。この思い込みがある意味現代社会における強迫観念になっているように思えました。
 そもそも役に立つ人ばかりであれば社会は成り立ちません。そこには何かしら不便を抱えたり、不足を感じている人が必要になります。
 私は思います。役に立つ人は、役に立たないとされる人の存在により、役に立つ人として存在できるのであって、お互いの需要と供給が成り立っているに過ぎないのではないか、と。
 もしかすると容疑者にもその強迫観念があり、自らの投影が変貌した形でこの事件に結びついたのではないかとも想像します。
 
 多様性が叫ばれて久しくなりました。
 経済や科学の分野でも、多様性を育むことが大切とする専門家も存在しており、人類はもともと多様性を尊重する考えを持っているが、現代社会では失われつつあると指摘しています。
 経営学では、多様性は企業の成長や活性化に繋がり、また認知や行動の研究では、我々がお互いに支え合う社会になることで、人間らしさを取り戻すことができると言われているとのこと。

 番組最後、池上さんの『均質は危険であり、実は非常に脆いのではないか』との問い掛けは、現代社会に提示された大きな課題なのかもしれません。