(第23回)どうしても現場へ!震災報道

1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒、阪神・淡路大震災が発生した。

当然のことながらNHK全体が騒然となり、週刊こどもニュース班も緊急特別報道体制に入った。地震発生当日昼、非番のため自宅で推移を見守っていた杉江のもとにも、編責であるチーフプロデューサーの藤生から電話がかかってきた。

「明朝に羽田から関西空港行きの飛行機を3席確保した。すぐ飛んでくれ。カメラマン1名と渡辺を同行させる。君はたしか神戸の土地勘に詳しかったな。土地勘があればなんとかなる。いい取材を期待しているぞ」

渋谷の放送センターに駆けつけると、池上彰はすでに陣頭指揮をとっていた。ニュースセンターとプロジェクトルームの間をめまぐるしく行き来していた。

明日杉江と一緒に取材に同行する渡辺ディレクターは、全国に散らばるネットワーク会員という週刊こどもニュースのサポーターの子どもたちを担当していた。その中から住所を頼りに被災地に住む子どもたちを選び出し、かたっぱしから連絡を取るべく、あらゆる手段を講じてコンタクトを試み続けていた。

もちろん先方もそれどころではない。そもそも電話さえ繋がりにくい状況で、安否さえ確認できない状況だった。それでも「現地の子どもたちの生の声を伝えたい」という池上の熱い意図は変わらなかった。その熱意のおかげか、渡辺は地震で自宅が半壊したという、西宮市に住む10歳の少女とのコネクションを確保した。

翌日1月18日、兵庫県入りしたクルーは予想通り渋滞で被災地に入ることはできず、車両とは別行動をとることにした。最小限の機材を持ち徒歩で5時間かけて西宮市に入った我々の目の前に広がるのは信じられないような悲惨な光景であった。ここではあえて詳細は省略するが、まだ人間が下敷きになっているかもしれない瓦礫の山の上を、一歩一歩大声で呼びかけながら進める足の裏の感触は、一生忘れることができないだろう。

かくして地震直後の、半壊した家で行われた生々しい少女のインタビューは全国に放送された。番組を見ていた視聴者からは多くの義援金やボランティアが集まったという。池上は杉江のインタビュー映像を評価した。「いやあ、これはなかなかショッキングでリアリティーのあるショットだなあ。よくやったね!」

「そうでしょうか?」と杉江はやや不満げに池上に言った。
「たしかに映像としては迫力がありますが。」つづけた。「いつ崩れるかわからない屋根の下で少女にインタビューをすべきではなかったのではないか、安全なところに移動してからインタビューすべきだったのではないかと僕は今も悩んでいるのです」

池上彰はそれをきくとじっと目を閉じ、少し考えてから僕の顔を見て静かに言った。
「杉江くん。それはジャーナリストにとって永遠の課題なんですよ」

後日、池上はプロデューサーにこう言った。「私を被災地に取材に行かせてください。映像はもうすでに十分にそろっているのでカメラマンは必要ありません。新しい発見やレポートは見つからないかもしれません。それでも行く必要があるのです。」

結局、池上彰はスチールカメラを一つ持参して、一人で阪神・淡路大震災の被災地へと向かった。カメラは独自の視点で被災地の姿を切り抜いていた。二日後池上が実際に放送中に語ったコメントは少なかったが、そのコメントには不思議な説得力が在った。後に池上はこう語っている。

「私は現場主義なんです。実際に自分の足を運び、自分の目で見たものしか信じない。そうしないと本当の意味で、自分の言葉で語ることができなくなってしまいます。」
(つづく)

>>(第24回)さらばNHK

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