これまで「週刊こどもニュース」の初回、1994年4月10日放送が開始される前の準備期間、いわゆる「立ち上げ」と呼ばれる企画段階の4ヶ月間について長々と書いてきた。

番組としての「週刊こどもニュース」は、それから池上彰以外がキャスターを務めた期間も含めると17年あまりの長寿番組となるのだが、あえて後半には触れない。

池上彰が今の池上彰へと成りえた重要なファクターは、その99パーセントがこの立ち上げの4ヶ月間と、それから家族が替わる1997年までの3年間の経験に凝縮されているといっても過言ではないからだ。それ以降の放送は完成されたフォーマットに則り、日々のニュースを当てはめていく作業である。出来上がった金型に新しい材料を流し込んで、鯛焼きを作り続けていくようなものだ。
視聴者が思っている以上に番組の「立ち上げ」というのは重要で、ここで企画とノウハウのほとんどが決まっていく。画面に映る放送自体は、制作側にとってはフィニッシュでしかない。
事実、池上は初代の家族が卒業するときに、自分も降板できるものなら降板したいと希望を出していた。

池上にとってこの番組の立ち上げは自己変革へのビッグバンであり、初代家族との3年間はわかりやすい解説をするためのノウハウの開発期間であったのである。その期間が過ぎた時には既に今のスタイルがほぼ完璧に確立されていた。ただ組織の人間である池上記者には自らリタイアする権限はなかった。
こども役の小中学生は2〜3年もすれば大人びてきて出演者として続投することができない、という物理的な制約があり、週刊こどもニュースでは2〜3年ごとに出演者を入れ替えることによって、番組を継続する方針をとった。お母さん役も初代の柴田理恵から二代目の高泉淳子、三代目の林マヤ、そして四代目の林家きく姫と交替したが、それぞれの良さはあるものの、池上彰のスタイルを形作るという意味においては初代池上ファミリーは特別な存在だったのである。

武藤啓太、村山真夏、石川茉侑の三人の子役と柴田理恵は、良い意味でその無知さによって池上の先生であったとも言えよう。
単に無知なだけではいけない。天然の明るさと頭の回転の速さが求められる。パソコンに例えるなら、何もインストールされていない超高速のCPUを備えたマシンといったところだろうか。そしてハードディスクは容量が小さくポンコツで、3ヶ月もすればデータが消えてしまう。何度も繰り返しインプットしなければいけない。
おかげで池上は何度も辛抱強く解説を繰り返し、その度に工夫を凝らしてわかりやすさを追求し、手を替え品を替え説明することを強いられた。
今にして思えば、それが結果的に池上を鍛え上げることとなった。

担当ディレクターもその多くが番組制作局の若手で、ろくに新聞も読まず取材もできなかったが、池上記者に鍛えられることによって報道の基礎を叩き込まれると同時に、こどもたちと対峙することによって視聴者目線というものをみるみる身につけていった。
初代池上ファミリーの四人の家族は、出演者というよりも視聴者代表というべき存在だったのである。
この類い稀なる疑似家族が、どのようにして池上彰に影響を与えていったか、具体的に生放送番組でのエピソードをあげれば見えてくるだろう。

まずは一番年少の石川茉侑。小学校4年生。
ことは第一回目の生放送である1994年4月10日放送の本番で、そのハプニングは生じた。
その週のトップニュースは細川護煕首相が辞意を表明したことだった。
(つづく)

>>(第14回)正直者

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